コルベ神父 ゼノ修道士 シベリア・ポーランド孤児救出 杉原千畝 レジスタンス 前ページに戻る
ポーランドと日本に影響のあった人物とエピソード   
コルベ神父 (聖 マキシミリアノ・マリア・コルベ)
聖人として認定されるには、通常かなりの年月が費やされて調査が行われる。
現代に生きる人々で既に聖人に列せられた人と実際に接した人がいることは極めてまれである。 そういう数少ない人たちが日本人にも存在する。
それは、聖マキシミリアノ・マリア・コルベが、コルベ神父として戦前の日本で宣教活動を行っていたからである。
彼はナチスドイツに反発する姿勢を崩さず、祖国を救うべくポーランドに戻って、活発な活動を展開していた。
ナチスに反抗的と逮捕され、収容所送りになり、遂にはアウシュビッツ収容所に送られ、収容されていたポーランド軍の兵隊10名が脱走を試み失敗、罰として10名が処刑されることとなったが一人の兵士が「私には妻,幼い子供が居る、助けてくれ」と命乞いをした。
コルベ神父は、極刑の餓死刑に指名されたその兵士の身代わりになり収監され、水すら与えられない情況で収監された兵士は次々に命を落とした。看守がコルベ神父の死亡を確認するため見回りに行くと、祈りの声と賛美歌が聞こえ終には毒薬を注射されるに至ったが、コルベ神父は召されることに喜びすら浮かべすすんで腕を差し出し、その死に顔は喜びに満ちていたと、当時の看守の報告にある。

その無私の生涯と英雄的な死が認められ、1971年10月17日に教皇パウロ6世から「福者」に列せられ、1982年10月10日に教皇ヨハネ・パウロ2世から「聖者」に列せられた。
日本において宣教活動に従事していたのは、1930年4月から1936年5月までの長崎での6年間であるが、現在の浦上天主堂近くに家を借り極貧の中精力的に福祉活動、教育活動を展開した。
4月24日に、布教のために長崎に上陸した彼は、わずか1ヶ月後の5月24日、『無原罪の聖母の騎士』Chevalier de l'Immaculeeを創刊。これはコルベ神父がラテン語で書いた原稿を日本人神父が何とか翻訳したものだという。

略歴は次のとおり。
1894年01月08日 ポーランド中部の町ズドンスカ・ヴォラで生まれる。
1907年10月    聖職者をめざしてコンベンツァル・聖フランシスコ修道会の小神学校に入学。
1912年11月    ローマ・グレゴリアナ大学に留学。哲学を学ぶ。
1917年10月16日 聖母マリアに特別に忠実に従う信者の運動団体「聖母の騎士信心会」を創立。
1918年04月28日 ローマ・バレの聖アンドレア教会でカトリック司祭(神父)に叙せられる。
1930年04月24日 布教のために長崎に上陸
1936年05月    ポーランドへ帰国
1939年09月    ポーランドに進入したナチス軍に捕えられ、アムテイツ収容所へ送られる。12月に釈放される。
1941年02月    再逮捕、パビアク収容所へ
1941年05月    アウシュビッツ収容所へ移される。
1941年08月14日 餓死刑に指名された10人の内の1人の若い父親ガイオニチェックの身代わりになって餓死刑を受け、死去。
1971年10月17日 教皇パウロ6世から「福者」に列せられる。
1982年10月10日 教皇ヨハネ・パウロ2世から「聖者」に列せられる。

戻る
ゼノ修道士
1930年4月24日コルベ神父と共に長崎に労働修道士として来日し、奉仕と宣教活動を行う。長崎で被爆したのも関わらず,長崎の被爆者救済活動を開始するなど、その活動は日本各地に広がり、中でも日本人に知られているエピソードは、戦後の江東区言問橋近くにあった集団生活集落「アリの町」に対する活動である。「アリの町」は空襲、震災で家と仕事を失った人々が公園の一角にバラックを建て今で云う廃品回収業、当時の呼び方でバタ屋・屑拾いと云われる社会でも極貧生活を強いられ、その生活は悲惨で荒んだものであった。
その中に社会的な秩序と教育の礎をもたらし、人間としての尊厳をもたらしたのがゼノ修道士であった。
ゼノ修道士と偶然的な出会いと影響を受けた「北原玲子」は裕福な家庭環境を振り切り献身的な奉仕活動を行い29歳という若さで、病のために他界し、「アリの町のマリア」として映画、書籍で紹介され、感動をよんだ。
どちらかと言うと「アリの町のマリア」のエピソードがクローズアップされているが、その礎になったゼノ修道士の見返りを求めない献身的な奉仕活動があってこそである。1981年2月教皇聖ヨハネ・パウロU世来日の折、90歳と高齢で入院中であったが東京カテドラル、カソリックセンター内で対面したことがゼノ修道士最大の喜びであった。
戻る
ポーランド・シベリア孤児の救出

シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえられたポーランド愛国者の流刑の地だった
1919年、ポーランドがロシアから独立した頃、ロシア国内は革命、反革命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーランド人がいたといわれる。その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。とくに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。

1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によって、「ポーランド救済委員会」が組織されたが翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可能となった。
救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことごとく拒否された。窮余の一策として、当時国交の無い日本政府に援助を要請することを決定した。
救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は1920年6月に来日し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請し、女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。
独立間もないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考えれば、驚くべき即断であった。

日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオストックを発って、敦賀経由で東京に到着した。
それから、翌1921年7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに1922年夏には第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来日した。

合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船により直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーランド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。

日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を受けた。

孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとして以下を挙げている。
ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれたが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしまって悔しかったこと…到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同情を集めた。
無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を絶たなかった。
腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若い看護婦は、病の伝染から殉職している。
1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援されてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児たちを親しく接見された。

このような手厚い保護により、到着時には痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り戻した。

日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さも考慮されて毛糸のチョッキが支給された。
この時も多くの人々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗船することを泣いて嫌がった。
埠頭の孤児たちは、「アリガトウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを表した。
神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

<シベリア孤児達のレジスタンス活動>
祖国に戻った孤児イエジ・ストシャウが17歳の青年となった1928年、シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となった。
極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設けられ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたという。極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問した時、思いがけない人に会った。
イエジ少年がシベリアの荒野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺理恵氏であった。
その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐在代理公使となっていたのである。
これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全館員が出席して応援し、また資金援助もした。

1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ部隊と愛称された。
そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。
イエジキ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。
急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人たちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。
イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しました」といって直ちに引き上げた。
当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく庇護したのである。

戻る
杉原千畝(大戦初期、駐カウナス(リトワニア)領事)

<ビザを発給>
ドイツのポーランド侵攻直前まで日本は独ポ間の危機回避に努めたが、果たせず。日米開戦直後の1941年12月11日、ポーランドのロンドン亡命政府は日本に宣戦布告、形式的にせよ両国は交戦国となった。他方、水面下での日本・ポーランド間の諜報協力は続行された。
大戦初期、駐カウナス(リトワニア)領事杉原千畝は、本省の不同意を無視して、数千のユダヤ系ポーランド市民に通過ビザを発効、多くの人命を救った。軍事面の協力がその背後にある。


1940年(昭和15年)7月27日朝、バルト海沿岸の小国リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原千畝(ちうね)領事代理は、いつもとは違って、外がやけに騒がしいのに気がついた。窓の外を見ると、建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしている。ボーイのバリスラフは、すでに群衆に会って、その理由を尋ねてきていた。ポーランドからナチスの手を逃れてここまで歩いてやってきたユダヤ人達で、これから日本経由でアメリカやイスラエルに逃げようとして、通過ビザを求めている、今は200人ほどだが、数日中に何千人にも増えるだろう、と言う。前年9月、ナチス・ドイツとソ連の密約により、両軍がポーランドに同時に攻め込

み、東西に二分割していた。そのドイツ軍占領地から、ユダヤ人狩りを逃れて、三々五々、このバルト海に面したリトアニアまで避難してきた人々であった。すでにオランダもフランスもドイツに破れ、ナチスから逃れる道は、シベリア−日本経由の道しか残されていなかった。
これほど多くの人々にビザを出すことは、領事の権限ではできない事だった。日独伊三国同盟を目指す方針の下で、ドイツに敵対するような行為は認められなかった。しかし、ビザを出さなければ、外のユダヤ人達の運命は決まってる。杉原領事代理はあきらめずに二度、三度と外務省電報を打つ。しかしドイツを意識して回答は否定的であった。

8月3日には、ソ連がドイツとの密約通り、リトアニアを正式に併合し、日本領事館にも8月中の退去命令を出した。日本の外務省からも、「早く撤収せよ」との指示が来る。 
ついに意を決して、杉原は人道上の観点から、外務省の指示に従わず、領事権限としてビザを発給する事を決める。領事が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。
一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き合ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。ビザを発給し続ける杉原領事に外務省から電報入った。
「避難民の行き先国の入国許可決定済みの者以外に、通過査証を与えないように注意されたし。(昭和15年8月12日)」
「避難民と思われる者に対しては行き先国の入国手続きを完了且つ旅費及び滞在費などの相当の所持金を持たないものには通過査証を与えないように取り計られたし。(昭和15年8月16日)」

しかし、退去期限ぎりぎりまで、杉原領事は朝から晩まで一日に数百枚ものビザを書き続けた。すべてを手書きで書く。
効率を上げるために、番号付けや手数料徴収もやめた。一日が終わると、疲れ果ててベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちる。
外には大勢のユダヤ人が順番を待って朝から晩まで立っている。やっと順番が巡ってきて、ひざまづいて杉原の足もとにキスをする女性もいた。夜はもう寒いのに、近くの公園で野宿して順番を待つ人もいる。

ソ連から退去命令が何度も来て、杉原はついに8月28日に領事館を閉鎖して、ホテルに移った。領事館に張り紙をしておいたので、ここにもユダヤ人がやってきた。ありあわせの紙でビザを書き続ける。
9月1日の早朝、退去期限が過ぎて、ベルリン行きの国際列車に乗り込んだ。ここにもビザを求めて何人かの人が来ていた。
窓から身を乗り出して杉原はビザを書き続けた。ついに汽車が走り出す。走り出す列車の窓に縋りくる手に渡さるる命のビザは
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼き付いています。「バンザイ、ニッポン」誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。
夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれる事を期待していたのでしょう。「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。

ビザを受け取ったユダヤ人達は、数百人毎の集団となって、列車で、数週間をかけて、シベリアを横断した。
ウラジオストックの日本総領事は、杉原をよく知っていて、杉原の発行した正式なビザを持つ人を通さないと海外に対する信用を失うことになると外務省を説得した。
日本郵船のハルピン丸が、ウラジオストックと敦賀の間を週一回往復してユダヤ人達を運んだ。船は小さく、日本海の荒波で激しく揺れ、ユダヤ人達は雑魚寝の状態で船酔いと寒さに耐えながら日本に向かった。
それでもソ連の領海を出た時は、ユダヤ人の間で歌声が起こった。シベリア鉄道では歌を歌うことさえ許されなかったのだ。
昭和15年10月6日から、翌16年6月までの10ヶ月間で、1万5千人のユダヤ人がハルピン丸で日本に渡ったと記録されている。敦賀から神戸に向かい、神戸のユダヤ人協会、キリスト教団、赤十字などの援助を受けた。
「日本人はやさしかった」と、あるユダヤ人は後に杉原夫人に語っている。神戸と横浜からユダヤ人達はイスラエルやアメリカに渡っていった。

敗戦後、日本に戻った杉原は、外務省を退職させられた。
占領軍総司令部から各省の職員を減らすようにという命令が出ていたのだが、「やはり命令に背いてビザを出した事が問題にされているのか」とも思った。杉原は黙って外務省を去った。
その杉原にイスラエル大使館から電話があったのは、昭和43年8月の事だった。杉原に救われた一人、ニシュリという人が参事官として在日大使館に勤務していた。
ユダヤ人達は28年間も杉原を探していて、ようやく見つけたのであった。ニシュリは、杉原に会うと、一枚のぼろぼろになった紙を見せた。杉原からもらったビザである。そして杉原の手をかたく握って、涙を流した。
翌昭和44年、杉原は招待されてイスラエルを訪問した。出迎えたのはバルハフティック宗教大臣。領事館でユダヤ人代表として杉原に交渉した人物である。
バルハフティック大臣は、杉原をエルサレム郊外にあるヤド・バシェムという記念館に案内した。ホロ・コーストの犠牲者を追悼するとともに、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館である。
杉原はそこに記念樹を植え、勲章を受け取った。その記念館には「記憶せよ、忘るるなかれ」という言葉が刻まれている。
昭和60年1月、杉原はイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞」を授けられた。
日本人としては初めての受賞である。すでに病床にあった杉原の代わりに、夫人と長男がイスラエル大使館での授賞式に参加した。杉原は病床のまま、翌昭和61年7月31日に杉原千畝は鎌倉市内の病院で静かに息を引き取った。享年86歳であった。

ボストン大学のヒレル・レビン教授、現代のアメリカを代表する歴史家と言われる。
レビン教授は、杉原の子供時代からの一生をたどり、さらに当時の日本の外交政策まで、丹念に調べていく。
そして発見したのは、扉を開けていたのは杉原だけではなかった、という事だった。 
40年から41年にかけて、12以上のヨーロッパの都市の日本領事館で、ユダヤ人へのビザが発行されていた。特に目立つのは、カウナスの他では、ウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなどだ。
レビン教授は『千畝』を出筆しました。

ファイナンシャルタイムズに杉原千畝が特集されていました。レビン教授の著書『千畝』を土台にした特集記事でしたが、レビン自身のコメントもあり、その中で氏は「日本は杉原の物語を日本の新しいイメージ作りのために用いればいい」と述べていました。
また、ポール・エイブラハム記者も「もし(日本の)外務省の職務が日本の良いイメージの提示にあるのであれば、日本は好機を逃している」と書き添えていました。
例えば、杉原(又は樋口)の行為を知った世界が称賛した際、けっしてひかえめに沈黙を保つのではなく、むしろ、このときこそ、国内の反体制団体が作り出した「性奴隷狩り」慰安婦問題や、未だ真相がわからない南京問題などに言及し、我々は真実を知りたい、と訴えれば、北京政府へ国際調査団受け入れの圧力を加えることができるのです。
当然ながらユダヤロビーも協力してもらう事が出来たのです。また東京裁判史観の問題点も欧米の国際法学者の間では活発に議論されてるにもかかわらず、日本では行われてない不思議さを嘆く欧米国際法学者も居ます。
発言と実行力の不足や他国及び一部団体のプロパガンダや情報操作に翻弄されて、世界を敵に回して失った名誉の代償は計り知れなく大きい。そろそろ「沈黙は金」という格言を歪曲し、日本人の美徳などと考えるべきではなく、国際社会における沈黙は容認であると認識すべきでしょう。

戻る
inserted by FC2 system