ポーランド日本倶楽部友好協会 ポーランドはどんな国(ポーランド・日本関係史) ポーランド豆知識
                   ポーランドと日本に関係のあった人物とエピソード
ポーランドってどんな国
 過去に何度も地図の上から姿を消し、その度に不死鳥のようによみがえってきた国ポーランドは”激動の歴経てきたといっても過言では有りません。第二次世界大戦で戦場になり、クラクフやザモチシチなど僅かな例外を除いて主な都市はほとんど破壊されてしまった。
しかし戦後、国民の粘り強い努力により可能な限り復元され、中世さながらの美しい町並みが再び見られるところが多い。
国土は緑あふれる大平原に無数の川や湖沼が点在し、農業が盛んです。豊かな自然も残され、鉄道線路脇を飛び跳ねる鹿の姿を目にすることもあります。南部のスロバキアとの国境地帯にはタトラ山地が横たわり、平原の国の貴重な山岳リゾートとして親しまれています。
国名(日本語) ポーランド
国名(英語) ポーランド共和国 Republic of Poland
首都 ワルシャワ
面積 31万2683平方キロメートル (日本の約4/5の面積)
ポーランド・日本関係史(在日ポーランド大使館編資料より)
18921919

ポーランドと日本の間に正式な国交が結ばれる前にポーランドの地を最初の日本人は、ベルリンから単騎でウラジオストックに向かう途上(1892−1893)の福島安正少佐だった。福島は大本営の命を受け、ヨーロッパ陸軍、特に不気味な隣国ロシア軍に情報収集に携わっていた。この時ポーランド人の独立運動指導者やシベリア流刑者達と接触を持った。19世紀末の日本人が、分割というポーランドが遭遇した悲劇的運命を知ったのは福島少佐の報告に追う所が大きい。
19世紀から20世紀に掛けてポーランドの旅行家や探検家がしだいに日本を訪れ始めたが、その中に二人のシベリア流刑者、民俗学者のブロニス・ビスッキとやはり民俗学者で作家であるブロニスワフ・シエロシエスキがいた。前者はアイヌ語・アイヌ文化の最も優れた専門家の一人となり、後者はのちに回想録や小説の中で日本について書いた。日露戦争中(1904−1905)にポーランド人の日本への関心が高まった。ロシアが負け、再び祖国の独立を回復する望みが出てきたからだ。これが当時の国民連盟とポーランド社会党の幹部と日本政府代表との非公式の接触につながる。そしてロマン・ドゥモフスキとユゼフ・ビウスッキが階段のため東京に赴くのである。結局幅広い協力に至らなかったが、その時ポーランド人が日本人に対して抱いた好感情は戦争中だけでなく今日まで続いている。
1919−1945年
第一次世界大戦後の1919年に、日本が独立ポーランドを承認したことをもって両国の正式の外交関係が始まった。20年代の両国関係は恒常的なものでなかったとはいえ、通商条約に調印し、皇室代表の非公式な訪問につながった。
日本赤十字社の援助で約800名のポーランドのシベリア孤児が祖国帰還を果たした。ポーランド人が親日感情を抱いていた証拠となったのは、1925年ポーランドが対ロシア戦の祭に軍功のあった51名の日本軍将校に、Virtuti Militari勲章を授与したことである。両国民の互いの文化に示す関心は大きく高まった。それに応えて多彩な組織が生まれた(たとえば日本・ポーランド協会やポーランド・日本協会など)ポーランドに日本語講座が誕生し、純文学が翻訳されさらに活性化された。軍事協力、特に対ドイツ・対ソ諜報活動及び暗号解読術の面での協力が推進され、この協力は1945年まで続いた。つまり1941年12月11日にポーランドが国交を断絶し、日本に対して宣戦を布告した後まで続いたわけである。
杉原千畝領事とシュレク・ダシキェブィチ少尉は主にカウスナ・ケーニヒスベルグで小野寺信大将とミハウ・リビコフスキ少佐はストックホルムで協力した。杉原領事のお陰で、約6000人のポーランド系ユダヤ人が確実と思われた死をのがれたのである。戦争中にもかかわらず、日本ではポーランドのフランシスコ修道会が伝導を継承していた。マクシミリアン・コルベ神父はその伝導拠点を、ゼノ修道士(ゼノン・ジェブロフスキ)と協力して長崎に設けた。日本の孤児や老人、身障者に対する彼らの献身的な援助は今も続いている。
1945−1999年
ポーランドと日本の国交は、1957年になって再び回復され、タデウシュ・ジェブロスキと太田三郎が最初の大使として赴任した。以後とりわけ1989年以後は政治、経済、学術面の協力が発展している。
1989年には海部俊樹首相がポーランドを訪問し、代わりにレフ・ワレサ大統領が日本を訪問(1994年)、1998年にはアレクサンデル・クバァニゼフスキ大統領、1999年にはイエジ・ブゼク首相が訪日を果たした。
日本からの投資規模も徐々に膨らんでいる。ポーランド・日本両国の芸術家達もお互いに触発、影響しあっているようにみえる。日本ではポーランド派と呼ばれる映画作品が好評を博し、タデウシュ・カントールの演劇、イエジ・グロトフスキの実験劇場、ポスターやグラフィック、マグダレア・アバカノブィッチの作品そしてポーランド音楽の評判も高い。ポーランドでも日本の古典演劇、前衛演劇、またポスター、グラッフィック、音楽、映画などどれをとっても熱烈に歓迎されている。
両国文化協力の最良のシンボルは、日本で最も良く知られている映画監督の一人アンジェイ・ワイダの奔走でクラクフに設立された日本美術技術センターであろう。ポーランドの日本学者の活躍のお陰で、両国の読者は多くの貴重な文化関係の著作や純文学のみごとな原語訳をてにすることができる。あらゆる点からみて、21世紀のポーランド・日本関係はさらに飛躍的な発展をみるように思われる。
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